私は「才能」を重視する


最近、「子供の可能性は無限だ。」、「『能力』を引き出せない奴はタダの馬鹿。」という主旨の発言をよく見る。

「点を取る技術」は身につけさせることが出来るだろう。しかし、それは本当に「才能」なのか。あるいは、「技術」で「勝ち取った」場所にいて、果たしてその子は次のステップに進めるのか。

私は、ある意味で意地悪である。タダ単純に点をとるだけなら他にある方法を、その子の能力に応じて教えないことがある。

私は、あくまで人は分相応であるべきであると思っている。

もし今の自分が、大学受験時の自分の側にいて指導すれば、本当の志望校であった京都大学に合格させる自信がある。しかし、多分私は京都大学に行っていたならば潰れていただろう。

それは、私が「才能」において所詮一流では無い証しである。所詮東北大学。1.5流(近年格上げ−つい最近まで2流大学と言っていた)でしかない証しなのである(私は結局、最後まで愚直な実証主義しか出来なかったし、史料とデータ、何より自分の目で確認していないものに基づかない議論を「信じる」ことはできなかった)。



鷄口となるとも牛後となるなかれ




だから、私は最後までその子の「才能」と「適性」を尊重したいと思う。

目先の点数を取らせて「良い高校」や「良い大学」に行かせるのが、生徒にとって良い仕事では決してないと信じている(保護者にとっては、「良い仕事」かもしれないが−そして、数年後に後悔するのである)。

もう、偏差値や名前だけで中学校や高校を選んだ挙句、泣き付いてきた生徒さんを見るのはたくさんである(不登校になった生徒さんもかなり目にしてきました)。

ついでに言えば、大学でも同じ様な境遇の人間を見てきた(卒論を出せずに退学した人間もいました)。

自分がたまたま這い上がれたから「才能は無限」と信じるなど、愚かな認識以外の何ものでもない。

私は最後まで、弱い者(not サボリ魔)の味方でありたい。

強者の論理は、強者の中でしか通用しないことを、負けることの意味を知らない人間たちは吠え続けるのである。そして、自分の手を離れた後に負けた子のことを気にはしない(もちろん、例外的に最後まで面倒を見る人間もいるが)。

強者の論理は、あくまで対等な条件において初めて言える台詞である。

「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある者だけだ!」@ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア

「努力で上がる幅」と「才能」は違うということをきっちり認識しなければ、受験の何年後、あるいは十数年後に、受験産業の手を離れた後に後悔する事態となるのである。

私は、自分の教え子にそんな思いをさせたくないから、「余力を持って」次のステップに行かせることを旨として仕事をするのである。私が辛口の評価をしている時(not 罵倒)は、間違いなく期待しているのである。

だからそれが嫌なら、私に依頼をしないで欲しい。

価値観が違う、あるいは理解しあえない人々と仕事をしても、結局喧嘩別れに終わるだけなので。

私は、親の満足のためではなく、生徒の未来のためにしか仕事はしない。


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